ぶらり歩き

6. 町田市 小野路探索                                  平成19年7月7日

 相模原市に残る徳本名号塔を自転車でめぐり歩いた友人O氏と、今回は町田市街より少し北にある小野神社(写真1)周辺の小野路を探索した。

 小野神社は、天禄年間(970〜972年)頃に武蔵の国司として赴任した小野篁(おの たかむら、延暦21年(802年)〜 仁寿2年(853年)、平安時代前期の学者)の七代の孫小野孝泰が篁の霊を祀ったことに由来する由緒ある神社である。因みに、小野篁の子孫では、孫で絶世の美人といわれた歌人の小野小町、三蹟のひとりに数えられる小野道風が有名である。

 小野路宿は小野神社に見守られるように、旧大山道府中道鎌倉古道などにつながる交通の要衝に位置している。上州から来る鎌倉道が深谷、笛吹峠、入間、武蔵国の国府が置かれた府中を抜けて武蔵国から相模国に入ったところに拓かれた宿場が小野路宿である。そして、町田、鶴間、飯田、藤沢を通って幕府がある鎌倉に至る。現在は、町田から野津田公園に向かう道路がT字に突き当たったあたりの左方向が小野路宿である。

 宿を通り抜ける道の片側には清流が心地よい水音をたてて流れる開渠があり、その分道幅が狭くなっているため、車がすれ違うには徐行しなければならない。そして、両側には板塀で囲った和風民家が建ち、古風な面影を残している。その道を車の往来に気をつけながら、小島資料館を訪ねる。土曜日は休館で、民家を利用した資料館の展示を見学することはできなかったが、たまたま開放された資料館の庭園奥には、幕末の新撰組長・近藤勇像(写真2)が建てられている。O氏によると、近藤勇はこの小島家の庭で剣術の稽古に励んだということで、日本の大変革期に小野路宿の大名主である小島家が関係していたという事実は、江戸時代の民度の高さを感じさせられる。小島家は応永2年(1395年)にこの地に住み着いたという名家であるが、こういう富豪層が蓄えた富を有為な青年などの教育に散財する行為は、平等が絶対視される傾向がある現代日本では見られなくなった。

 小野神社に戻り、神社に沿った細道を辿ると、元徳2年(1330年)に創建された萬松寺がある。その途中の木立の中に六地蔵(写真3)がある。そして、確認はできないが、六面六地蔵(写真4)と思われる石仏が建っている。近くには人家が建っているはずであるが、細道の片側には竹や大樹が繁り、この辺りは人里離れた山中の雰囲気を醸し出している。

 道を戻り、野津田公園の入口に小野一里塚(写真5)がある。久能山に埋葬した徳川家康の遺骨を元和3年(1617年)に日光東照宮に移すときに、小野一里塚が造られ、東海道の一里塚よりも一回り小さく、榎木が植えられていたという。この一里塚の前を通る道は往時の面影を残す道幅で、御尊櫃御成道(ごそんひつおなりどう)あるいは矢倉沢往還として利用され、東海道の平塚と甲州街道の府中を結んでいた。

 小野路探索のついでに、町田市小山田町に廻り、平安時代末期の豪族小山田有重が承安元年(1171年)に居城を構えた跡に建つ大泉禅寺を訪ねる。大泉禅寺は安貞元年(1227年)に小山田五郎行重により創建されたことに始まる。重厚な山門(写真6)をもつ寺院で、本堂前の左右には真新しい羅漢像(写真7)が置かれている。ここの羅漢像は喜怒哀楽の表情を表すというよりも修行を重ねた悟りの表情をもち、温かみと包容力を感じさせる。

 続いて、町田市上小山田町の田中谷戸にある鶴見川源流の泉(写真8)まで足を延ばす。 一日に約1,300トンの地下水が湧き出しており、源流の泉から湧き出した水は水音をあげて勢いよく側溝を流れ下っていく。源流と道ひとつ隔てた民家で植木の手入れをしている婦人に話を聞くと、かつてはこの水を自宅に引いて生活用水としていたとのことである。現在は、源流から少し下ったあたりは宅地開発の波が押し寄せつつあるが、この水は水田用水として大切に利用されていたという。因みに、源流から1.4km下った新橋から下流が鶴見川、上流は小山田川となっている。

          

 

(1)小野神社 (2)小島家・近藤勇像 (3)萬松寺・六地蔵 (4)萬松寺・六面六地蔵
小野神社の写真
小島家の近藤勇像の写真
萬松寺の六地蔵の写真
萬松寺の六面六地蔵の写真
(5)小野一里塚 (6)大泉禅寺・山門 (7)大泉禅寺・羅漢像 (8)鶴見川源流の泉
小野一里塚の写真 大泉禅寺の山門の写真
大泉禅寺の羅漢像の写真 鶴見川の源流の写真

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